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イケウチとオーガニックの20年間。

2019.05.17

目次

愛媛県今治市に拠点をかまえるIKEUCHI ORGANICの池内計司です。

今治市は瀬戸内海の多島美や日本三大急潮流の一つとして有名な来島(くるしま)海峡に面しており、広島県の尾道から続くしまなみ海道が四国に入ったあたりに、ちょうど位置しています。

人口15万人ほどの地方都市ですが、日本一のタオル産地と呼ばれています。

私が生まれたのも、ここ今治。生家は、祖父の代から今治のタオル産業に携わり、父、池内忠雄が池内タオル株式会社を1953年に創業しました。私はそれを継いだ二代目経営者です。

2014年に池内タオルから、IKEUCHI ORGANICに社名を変更。現在70歳の私は、社長の引き継ぎも終わり、代表という立場で好きなものづくりに専念できる身分になりました。

私にとって、手がけてきたタオルは我が子のようです。「イケウチのタオルが好き」と言われると、自分の子どもが褒められたように嬉しく思ってしまいます。

そのなかでも、『オーガニック120』というタオルは、私の人生において特別な存在です。

IKEUCHI ORGANICという社名に表れるように、現在の私たちはオーガニック・コットンを使用したタオルや寝具など、様々なオーガニック製品を扱っていますが、この『オーガニック120』が、当社にとって初めのオーガニック製品なのです。

誕生日は、1999年3月20日。今年(2019年)の3月20日をもって20歳の誕生日を迎え、ついに成人になりました。

オーガニック120は、「世界でいちばん安全なタオルをつくりたい」という想いから生まれたタオルです。販売目標を設定するわけでもなく、つくり手としての理想だけを追求しました。

そのため、正直に申し上げますと、誕生当初はこんなに長い付き合いになるとは夢にも思っていませんでした。よく20年も続いたと自分でも驚いています。

しかし、振り返ってみると、現在のIKEUCHI ORGANICがあるのはオーガニック120のおかげです。この子がいなければ、私はとうに会社を畳んでいたかもしれません。

2003年に連鎖倒産により自己破産に陥った際に、「なんとしても会社を存続させよう」という気持ちを持たせてくれたのは、オーガニック120の存在があったからです。このタオルがなければ、私たちを応援してくださる沢山の人たちとの出会いもなかったでしょう。

そして何より、私自身がオーガニック120により大きく変わりました。オーガニック120を育てるうえで、自分がいかに環境や安全に無知であるかを思い知り、様々な方から教えをいただきました。

子育てを通じて、親も成長するとよく言いますが、全くその通りだと感じています。

そこで、大切に育ててきたオーガニック120が成人を迎えた節目に、私とオーガニック120の20年間の歩みを、ここに振り返りたいと思います。

あるものを否定し、新しいものをつくる

はじめに、私の前職である松下電器(現パナソニック)時代から話を始めたいと思います。なぜなら、ここでの経験がオーガニック120の誕生に大きく影響を与えているからです。

生まれ育った今治を離れ、東京の大学に進学した私は、卒業後の約12年間、松下電器のステレオ事業部で働きます。

もともと私は池内タオルを継ぐという考えを全くもっていませんでした。

中学3年生の時にビートルズと出会い、それ以降、私の人生はビートルズなしには語れません。神であるビートルズを最高の音質で聞くために、オーディオマニアの学生となります。その後、就職活動で縁のあった松下電器に入社し、好きなオーディオ分野で仕事をさせてもらいました。

とはいえ、当時の松下のステレオへの世間からの評判は散々なものでした。「松下のステレオなんていうのは、鍋釜の横でつくっているもの。いい音なんてするわけがない」と批判されていました。

そこで、ナショナルやパナソニックのイメージを想起させない別のブランドとして生まれたのが『テクニクス』です。こうした成り立ちゆえ、テクニクスは、ナショナルやパナソニックを否定するところから始まっています。松下の中では、かなり異色な存在です。

「すでにあるものを否定して、新しいものをつくる」

これは、現在のIKEUCHI ORGANICのものづくりの基本姿勢になっていますが、松下での経験からきているのです。そして、この時に、ブランディングに関わる仕事を経験させてもらったことが、後の池内タオルでのブランド形成にも活きています。

私は、松下時代に趣味を仕事にしたことを誇りに思っています。仕事は楽しまなければならない、というのが私のモットーです。組織のなかではつらいことも多かったですが、何よりも大好きなオーディオ三昧な毎日でしたから、オーディオマニアの私には何も苦にならなかったのです。

ところが、人間とはわがままなもので、日々増長していきます。

私は「こういう商品をつくって欲しい」と社内に提案するプランナーという立場でしたが、私が30歳を超える頃、当時の役員と意見が食い違うことが増えてきました。自分の意見が通らない、自分の愛するブランドが違う方向に進もうとしていると思い、散々お世話になった松下を退職することを決めます。

もっとも、辞めると決めた時、私は池内タオルを継ぐつもりだったわけではありません。辞めると聞けば、ヤマハかソニー、パイオニアあたりが声をかけてくるに違いない。そのうちのどこかに行けばいいだろうと思っていたのです。いま思えば、なんとも傲慢な話ですが、そう高をくくっていたのです。

しかし、待てど暮らせど、どこからも反応がない。世の中というのは、自分が思うようにばかりはいかないものなのです。そして、私はようやく考えました。

「今治に帰ろう。そして、父から池内タオルを引き継ごう」

何も知らない素人が社長に就任

私はふたり兄弟で、兄がいます。兄は、自分の意思をつらぬきマスコミに勤め、役員にまでなりました。そんな兄が実家のタオル会社を継ぐはずもありません。そこで私が松下を辞めるしばらく前から、父から折に触れ「継いでほしい」と言われていました。

私自身、衰退著しい今治の様子を見るにつけ、何かできないだろうかと感じていたのも事実です。

実家のタオル会社を継げば、ここで自分のつくりたいものがつくれるかもしれない。オーディオのプランナーから、タオルのプランナーをやってやろうというわけです。

池内タオルを継ぐと決めて、さっさと今治に帰ればよかったのですが、その時の私にはそうしたくない何かがありました。思うに、見栄やてらいがあったのかもしれません。少々、格好をつけて私は父にこう言ったのです。

「池内タオルの創業記念日に、俺の辞表を親父にプレゼントするよ」

創業記念日は2月11日。その日は父の誕生日でもありました。会社を継ぐ意思はもう伝えてあるので、私は創業記念日の前日まで呑気に松下のある大阪で過ごす予定でした。

ところが1月末、父が脳梗塞で突然倒れたのです。

いまほど医療技術も進んでいない時代のことです。結局、父の意識はそのまま戻ることはありませんでした。倒れてから一週間後、父は静かに逝ってしまいました。

1983年2月4日。創業記念日、そして父の70回目の誕生日まであと7日のことでした。

父の死を機に、私は急遽社長に就任することになります。葬儀の席上で社長就任の挨拶をするという、その後の私のジェットコースター人生を象徴するようなスタートです。

とはいえ、タオルのことは何も知らない素人です。小さな会社ですから、いわゆるノウハウというようなものは全て父の頭の中にありました。文章化された形では何も残っていません。

ここから、私の池内タオルでの日々は始まったのです。

海外との競い合いから生き残る道とは?

私が社長に就任した当時のタオル産業は、全体としては生産過剰な状態。国内市場に流れる商品は、100パーセント日本製が占める時代でした。タオルメーカーにしてみれば、いいブランドと取引のある問屋と付き合い、そこから発注される仕事さえこなしていれば、ある程度の売上が立つという、よい時代でもありました。

ただ、当社は少し事情が違いました。父が創業した当時から、ヨーロッパやアメリカ向けの輸出用商品を積極的に手がけ、創業から20年は海外向けが100パーセントという輸出専業企業だったのです。その後、オイルショックを境に国内向け商品にシフトしました。

私が引き継いだ時点でも、売上の20パーセント程度は輸出によるものでした。しかし、80年代のアメリカというのは、大変な不況に見舞われ、バブルに浮かれる日本とは対照的です。90年代に入ると、徐々に減ってきた輸出はほとんどゼロになります。

一方、日本国内では、元々の成り立ちが輸出専業のため、池内タオルの名は業界にあまり浸透していませんでした。

そして、国内の状況は厳しいものに変わっていきます。それは格段に生産コストの安い中国やベトナムの工場が台頭してきたからです。言い換えれば、それは当社が海外の工場でも生産可能なタオルしかつくっていなかったことの証でした。

そのことに愕然とした私は、自社でしかつくることのできない品質の高いものをつくる以外に、生き残りの道はないと確信するようになります。

当社は、もともとジャカード織りの高い技術をもっていました。ジャカードというのは、立体的で複雑な大きな柄を生み出せる織りの手法で、凸凹や粗密などの変化を組み合わせて、柄をつくります。業界で最初にコンピューター化したCADを使い始めたのは、池内タオルだと自負しております。

私がこのジャカード織りの技術を活かした新展開として選んだのは、タオルハンカチでした。業界外の方から見ると、タオルもハンカチも同じようなものなのかもしれませんが、業界内部にいる者にとって、この二者は似て非なるものです。

タオルハンカチは、ほとんどがブランド品のOEM(受託生産)です。ブランドが重視するのは、いかに発注されたデザインを忠実に実現できるかという点です。そこに、このジャカード織りの高い技術が活かせるはずだと考えたのです。

その結果、工場の織り機もラインも、タオルハンカチの製造に向けて組み替えて行きました。実際に、様々な有名ブランドの受託生産を手がけ、その収益が会社を支えていきます。90年代から2000年頭まで、池内タオルの名前は残しつつも、当社の実態は「池内タオルハンカチ株式会社」となりました。

しかし、「織り技術」の他に、私はもうひとつの新機軸を考えていました。それが「環境」だったのです。

海の水より透き通る染色工場の誕生

私はとにかく新しいもの好きで、どこよりも早くやることに意義を感じる気質です。

1989年に生まれた『エコマーク』をいち早く取得。『グリーン』という名前の環境に配慮した商品を展開しました。

といっても、当時の環境に対する私の知識はいかんせん浅く、今から考えればお恥ずかしい程度のものでした。環境配慮に対する自分自身の考え方も固まらないままに、とにかく動いてしまった。それがために空回りをしていました。

当時のエコ商品はお題目だけのものでした。あまりに嘘と誤りが多く、自分自身がつく嘘に嫌気がさし、私は環境配慮商品からの撤退を決めたのです。

そんな私が、もう一度、環境に本腰を入れて取り組もうと思ったきっかけは、1996年に来日したデンマークのノボテックス社の社長、ライフ・ノルガードさんとの出会いでした。

ノボテックスという会社は、『グリーン・コットン』というオーガニック製品のブランドをもっていて、その時、彼はそれを広める講演のために来日していたのです。

その講演で、聴衆のひとりが、彼らのグリーン・コットンを日本ではできないのか、と質問をしたそうです。ノルガードさんは、「自分たちのコンセプトを実現するためには、高度な処理を行うことのできる廃水処理施設をもつ染色工場が必要だが、こんな施設は我々にしかつくれない。残念ながら、日本では無理だろう」と答えたようなのです。

すると、別のひとりが、「データ的にはあなた達の工場よりも、もっと良い数字が出る染色工場が日本にはある」と伝えました。

ノボテックスの自慢のタネは、自社の廃水処理技術です。ノルガードさんとしては、こんな話を聞かされて黙って帰国するわけにはいかない。噂の真偽を確かめるために、その紹介された工場に急遽足を運ぶことに決めます。

そうして、私たちの染色工場(インターワークス)に彼は勇んでやってきました。

この染色工場は、海外との競争が過熱化していくなかで、徹底して品質にこだわる日本製のタオルをつくろうと、池内タオルを含む今治市のタオル関連企業7社で立ち上げたものです。

この協同組合の中心は、地元では知らない人のいない伝説の人物、吉井タオル創業者、吉井久さん。吉井さんは、「資金は自分が出すから、君は体を出せ」と言い、私は参加を誘われました。

瀬戸内海には、瀬戸内法(瀬戸内海環境保全特別措置法)と呼ばれる、世界でもっとも厳しいとされる廃水規制が敷かれているため、その基準をクリアする廃水処理施設にしなければなりません。工場建設に向け、私は東奔西走することになりました。

こうして1992年に完成した工場の浄化施設は、オリンピックの公式プールほどの広さで、地上3階、地下2階という巨大な建物でした。一日の廃水処理能力は2000トン。バクテリアによって長時間をかけて処理するものです。

施設からの廃水は、「海の水より透き通っている」とまで言われ、テレビ番組のニュースで取り上げられたこともあるほどです。

 

この工場が池内タオルに大きな分岐点をもたらしました。莫大な資金をつぎ込んだ施設を前に、今治でやるしかないと腹が据わったのです。

そこに環境先進国であるデンマークのトップリーダーの突然の来訪を受けたのでした。

環境にディープな専門家たちからの洗礼

やって来たノルガードさんは、この施設の優秀さに驚嘆するばかりでした。まさか、日本の愛媛県今治市という片田舎にこれほど高水準の施設があるとは、ゆめゆめ思わなかったことでしょう。

ただ、彼はそれと同時にもうひとつ大きな衝撃を受けたようでした。彼は私の目を見て、こう言ったのです。

「なんて素晴らしい施設なんだ!確かに君たちの廃水処理施設は、ものすごい水準だ。ただ、もっと驚くべきことがある。それは経営者であるミスター池内、君が環境に関してここまで無知であることだ!

それからノルガードさんは私に、懇々と環境の重要性、そして環境対策に取り組む意義を語り始めたのです。

その広く深い内容に触れ、私はひどく反省しました。環境対策は生半可な気持ちで取り組んではいけない。一からやり直さなければ…。そう痛感したのです。

また、環境配慮について考えがまとまらなかった私にとって、ノルガードさんが語るノボテックス社の合理的な思考は、すとんと胸に落ちました。

科学的、客観的事実を積み上げて製品を冷静に自己評価し、さらなる向上を目指すという彼らの考え方に学べば、新しいスタイルの環境配慮商品でビジネスができる。そんな一筋の光明が見えた気がしたのです。

ノルガードさんは私に対し、環境対策への本格的な取り組みの第一歩として、まもなくリリースされるISOを取得することを勧めてくれました。

そして、私はその教えに素直に従い、1999年、企業の環境対策に関する国際規格であるISO14001を取得します。

今では至る所で目にするようになったISOですが、当時は習得する企業はそれほど多くはありませんでした。当社のISO14001取得は、タオル業界では初の事例です。したがって、前例がない状態で、なんとかシステムをつくりあげました。

さらに翌年の2000年には、製品の品質保証に関する国際規格であるISO9001も取得。これらが評価されたのか、私は中小企業経営者の代表として、さまざまな環境関係の会議に呼ばれるようになります。

会議に行ってみると、そこには環境にディープな運動家の方々も沢山集まっています。この頃は既にオーガニック120の製造・販売を開始しているのですが、まだまだ勉強不足だった私は、とにかく突き上げを食らいました。

「オーガニックタオルのデータを公表しなさい」
「原子力発電で生まれた電力を使っているのは、正しいのか?」
「オーガニックと言っておいて、化学染料で色を染めているのはいったいどういうことだ?」

こういった質問に対して、「化学染料はきちんとコントロールして使えば、人類がつくったいちばん安全な染料なのです」とその場で説明しても、分かってもらえるはずもありません。私はこれにひとつずつ、応えていくことにしました。

安全性を伝えるには裏づけがいることを身をもって感じ、翌2001年には、世界で最も厳しい繊維製品の検査機関「エコテックス」へ検査を依頼しました。具体的な品質基準や数値を公表することで、製品の安全性を示すことにしたのです。

言ってみれば、きれいごとのようなピュアな世界をどんどん突き詰めていきました。ディープなエコロジー運動家の方々からの洗礼を受け、池内タオル、そして私自身が変わらざるをえなかったとも言えるのです。

『オーガニック120』誕生

1999年にISO14001の認証取得を果たしたことによって、私の意欲が伝わったのでしょうか、ノルガードさんは当社にグリーン・コットンの技術を提供してくれました。

その伝授されたノウハウを用いて、私たちにとって初めてとなるオーガニック・タオルが誕生します。

それが、1999年の3月20日に販売を開始した『オーガニック120』シリーズなのです。

当時は『オーガニック カラーソリッド 1』シリーズと呼んでいました。

ここで改めて、オーガニック120に代表される、当社の環境配慮について紹介させてください。

当社のオーガニック・タオルは、スウェーデンの「KRAV」、オランダの「SKAL」、スイスの「bio・inspecta」といった世界的な認証機関が認定した、農薬や枯葉剤を使用しない、有機栽培の綿を原料としています。

綿から糸を紡ぐ紡績工場にも厳しい基準があります。当社では、手積みで収穫されたオーガニック・コットンをインドの認定紡績工場で製糸したオーガニック・ヤーンを使用しています。

製品の安全性に対する責任、地球環境の保護へのこだわりは、原料に対してだけではありません。その後の染色、織りの工程を含め、製品が完成するまで続きます。

そして、製品が安全であることを確認するため、前述した「エコテックス」で最終製品のテストを行なっています。

エコテックスは、ヨーロッパの繊維企業のほとんどがここの認証を取得しているというほど、テキスタイルの安全性においては国際的に権威もあり信頼性も高い機関です。

そこでは、繊維が商品になるまでの過程について、100種以上の化学薬品に関するテストがおこなわれています。生産工程で使われる原材料だけでなく、全化学薬品についても安全性テストがおこなわれます。そして最終製品にそれらの薬品がどの程度残留していて、人体にどれくらいの害があるのかを調べ、認定をおこなっているのです。

その認定ランクは4段階に別れていて、最上位のクラス1は乳幼児が口に含んでも大丈夫なものとなっており、当社のタオルは、このクラス1のお墨つきをもらっています。

また、オーガニックなのに化学薬品を使うことに対して指摘をいただくことがありますが、製品の寿命を考えると、必要最低限の化学薬品を使う判断も、あってしかるべきなのではないかと考えています。

タオルは、肌触りなどの風合いだけでなく耐久性も要求される、あくまでも日用品です。世に出した製品をお客さまに出来るだけ長く使っていただけるよう、その寿命を長く保つこと自体が環境に与える負荷を低減することになります。

タオルをつくる以上、生産するタオルはできるだけ長期間にわたって製品の初期品質が持続できるようにしていきたい。安易に買い替えを促すモノづくりを、私たちはよしとしないのです。

全く売れず、見向きもされない新商品

こうして1996年のノルガードさんとの出会いから始まり、1999年に産声をあげたオーガニック120ですが、この頃、私は池内タオルの次の戦略として「自社ブランドをもちたい」と考えるようになりました。

結局のところ、OEMでハンカチをつくることに、メーカーとしてある種のストレスを感じていたのです。つくりたいものをつくれない、という意味では、松下電器を辞めたときの心境とよく似たものがありました。

タオルハンカチはたいへん売れていましたから、会社の収益という側面から見れば、非常に重要なメインの商材です。とはいうものの、この分野では決して自分たちがつくりたいと思うものをつくることはできません。どんなに良いアイデアや素晴らしい技術があったとしても、ライセンスを有するライセンサーがすべての良し悪しを判断するのが、この世界におけるセオリーでありルールなのです。

この悶々とした思いが、自社ブランドをつくることへの原動力となりました。

そんな最中、1999年にしまなみ海道の開通により、今治に大量のお客さまが来るだろうとの目論見のもと、県や市をはじめ、四国タオル工業組合が今治に物産館をつくるという話が舞い込んできました。

これはチャンスだと私は捉えました。つくり手としての理想を形にしたオーガニック120を、自社ブランドとして消費者に届けることができる。オーガニック120は、しまなみ海道の開通を祝うフェアでのお披露目を目指してつくられました。

当時のオーガニック120の値段は、バスタオルで1枚3,200円。

その頃にデパートで流通しているバスタオルの平均的な価格が2,000円〜2,500円くらいだったので、非常に高い金額です。しかも、お客さまに価値を訴求する効果的なデザインやこれといったキャッチコピーもないわけです。

ISOを取得している企業の製品ですと言ったところで何の効果もありません。とはいえ、肝いりの自社製品ですから、当時はこんなキャッチコピーをつけて売っていました。

「天の恵 “綿” に枯葉剤は使うべきではない」

いまにして思えば、ずいぶんとギスギスとした、トゲのあるコピーをつけたものだと思います。

結局、大方の思惑ははずれ、しまなみ海道ができたからといって今治に観光客が大挙して押し寄せるようなことはありませんでした。物産館で月にわずか5万円ほどを売り上げるだけの、商品と呼ぶのもおこがましいようなものでした。

とはいえ、オーガニック120のために、つぎ込んだ資金は数千万単位にのぼっています。

そこで販路を増やす意味で、誕生して間もない『楽天市場』に出店し、インターネットでの販売もはじめました。まだ出店数が非常に少ないころで、当社の登録ナンバーは3桁だったと思います。

楽天の講習会を受けに今治から東京に行くと、上場企業のネット担当者しかいませんでした。若いメンバーに交じって、私だけ50代。楽天では2年ほど販売していたのですが、月額5万円の出店料を超える売上がたった月は、たったの一度だけでした。それで楽天への出店はやめて、自社サイトでの販売に切り替えました。

池内タオルは、タオル会社といってもタオルの卸業界との取引は少なかったため、ウェブでの直販はもとより、小売店と直接取引をおこなっても、卸業界からの反発はほとんどありませんでした。

きっと「池内のあの社長がまた、突飛なことをやっているなぁ」という程度のとらえ方だったのでしょう。歯牙にもかけられないという感じでした。私の夢が詰まったタオルは、業界でも特に注目もされず、たくさん売れることもなく、つくりたいものをつくっている、という状況が続いていたのです。

ものの見事に空振りをした海外展開

国内で細々とオーガニック120の販売を続けていた私ですが、自社ブランドを成功させるために考えていたのが、海外で高い評価を得ることです。

なんだかんだ言っても、日本のマーケットは既存のブランドに対する信仰が強い世界です。その日本で新たにブランドを立ち上げ、ゼロから支持を得るのが容易ではないことは重々承知していました。それならば、まずは海外で成果をあげ凱旋するという、逆輸入のような形をとる方が、ブランドをつくる実現性が高いと考えていたのです。

そこで私は、1999年から東京で開かれるエコプロダクト展への出展を開始し、さらに2000年からは、アメリカでの展示会にも出展しました。日本とアメリカで年に3回ずつ展示会をおこなうわけですから、この出費も莫大です。

当時は、タオルハンカチのOEM生産という屋台骨がしっかりとしていたので、コストの制約にしばられず、色々とチャレンジをすることが可能だったのです。

1999年にオーガニック120の誕生と共に生まれた自社ブランド名は、社名そのままの『池内タオル』だったのですが、アメリカ進出にあたり、翌年2000年には『IKT』と改めました。

というのも、「池内」のローマ字表記である「IKEUCHI」が、海外では“イケウチ”と発音してくれないのです。どうしても“アイケウチ”になってしまう。そこで急遽、池内タオルから英字3文字をとって『IKT』としました。

こうして、新たなブランド名を冠し、晴れてアメリカへ私たちは渡ったのです。

このとき、『IKT』の強みは、タオルハンカチで鍛えた「織り技術」。そして、ノルガードさんとの出会いにより育てられた「環境配慮」です。

「このずば抜けた織りのテクニック、プラス環境というコンセプトがあれば、黙っていても売れるだろう。勝負には勝てるはずだ」

こう高をくくっていたところが、正直ありました。ところが、これが全く受けなかったのです。ものの見事な空振りでした。

凝りに凝ったデザインを施し、織りとしては秀逸と思われるものに、アメリカ人は少しも興味を示してくれませんでした。彼らは私たちのタオルを見て、「ノーブルだね」と言うのですが、決して買うことはありません。売れるのは決まって非常にシンプルなデザインのタオルだけなのです。

『ノーブル』というのは「優れた」とか「品がある」といった意味ですから、そう言われた私はその意味を辞書通りに受け取り、てっきり褒められたような気になっていました。しかし何のことはない、実は「田舎臭い」と思われていたようなのです。

これは完璧に私の読み違いでした。欧米人のタオルに対する考え方を全く理解できていなかったのです。

日本では、タオルはギフトとしていただくことが一般的です。需要のうち、7・8割はギフトとしての使用なのです。ギフトで重要なのは、箱に詰められた状態でどれだけキレイに見えるかです。ですから、どうしても有名ブランドの名前が刺繍されたものや、ゴージャスな柄のものが選ばれる傾向にあります。

ところが、アメリカやヨーロッパにおいては、タオルは絶対的に自分で買うものなのです。家に20枚タオルがあるとすると、彼らはそれを棚に並べたときにどう見えるかをイメージしながら買います。となると、一枚一枚のタオルがそれぞれ勝手に主張するのは、まことに都合が悪い。限りなくシンプルで、バスルームのインテリアが上手くまとまるようなタオルが、求められるというわけです。

「アメリカ人が好むのは、シンプルなデザインのタオルだ」

こう分かったことは、非常に有意義でした。しかし、また問題が起こります。というのも、シンプルなデザインのタオルというのは、当然のことながら「織りの技術」で差別化を図ることができません。

最初は、これ見よがしに織りの技術を見せつけるようなデザインのものばかりを並べていましたが、次第に、タオルの風合いで勝負することに専念するようになりました。

アメリカの展示会は、日本とは違い、単に展示を行うだけの場所ではなく、そのまま商談の場になります。その場で契約まで行うのです。私はタオルの製法に改良を加え、展示会で売れたラインを充実させ、反応の悪いものはラインナップから落としていくということを繰り返し、オーガニック120をシェイプアップさせていきました。

こうして徐々にではありますが、アメリカに『IKT』の名前とオーガニック120が広がり始めたのです。

使用電力を100%風力でまかなう日本初の企業へ

国内外で生まれたばかりのオーガニック120と奔走していた私ですが、2001年に、その後の私たちのキャッチコピーとなる『風で織るタオル』に繋がる取り組みを始めます。

それが、『電力グリーン化』です。

当社は自社で使用する電力を100%風力発電でまかなっています。その池内タオルがつくるタオルですから『風で織るタオル』と呼ばれるようになったのです。

こうお伝えすると、当社が風車を保有して発電をしていると思われる方が多いのですが、自社で風力発電をおこなっているわけではありません。

日本自然エネルギーという会社が『グリーン電力証明システム』という仕組みを立ち上げていて、全国の風力発電所と、風力発電でつくられた電気を使いたいという企業や団体を結びつけるサービスを展開しています。当社は、これを顧客として利用しているのです。

このシステムを導入し、社内での消費電力の一部をグリーン化した企業には、錚々たる大企業の名前が並んでいます。そのなかに中小企業としては初めて、池内タオルが名を連ねたのです。

2001年、私はISO14001にかかわる、次の環境目標の設定に頭をめぐらせていました。ISOというのは、一旦取得したらそれで終わりではありません。3年ごとにアップグレードをする必要があるのです。当社がISO14001を取得したのは1999年ですから、2002年には、また新たに向こう3年間の環境目標を設定する必要があるのです。

その計画を立てるうえで、「電力をグリーン化したい」という考えが頭にあり、少しでも排気ガスが少ない形にできないだろうか、と考えあぐねていたところでした。

そんな最中、大阪のソニーのショールームが、100%グリーンパワーで稼働を開始するという内容の新聞記事をたまたま目にし、その電力の配給元として日本自然エネルギーの存在を知りました。

興味を持った私は、すぐにインターネットで同社を調べ、問い合わせのメールを送りました。するとすぐに、「今治に行きます。時間はとれますか?」と先方の営業部長さんから連絡があったのです。

この反応に正直、私は躊躇しました。わざわざ今治まで足を運んでもらっても、当社は小規模企業ですから、それほど多くの電力を必要とするわけではありません。ところが、それでも今治に行くとおっしゃるのです。

聞けば、それまで年間100万キロワット単位でしか電力を販売しておらず、主に大企業を顧客にしていましたが、今後は中小規模の企業にも販路を広げていきたいと思っていたそうです。とはいえ、小規模な企業との取引のイメージがつかめずに苦慮していたというのです。

そうした時に、私からメールが届いたということで、どちらにとっても絶好のタイミングだったというわけなのです。

日本自然エネルギーとの契約電気量は、年間40万キロワット。居並ぶ大企業に比べれば、ほんのわずかな量ですが、池内タオルの社内で消費する電気の総量がこの量なのです。

この契約により、当社の電気代は従来よりも約2割増となる計算になりました。しかも最初に規定の量で契約するわけですから、使ったら使っただけ支払う従量制というわけにはいきません。正直、かなりの固定的な負担になることは、間違いありません。

それでも、私に迷いは一切ありませんでした。なぜかというと、「環境負荷の低い商品を扱っているから、その会社は環境にやさしい」という考え方がありますが、私はその考え方に違和感を覚えていたからです。

例えば、オーガニックタオルであれば、その過程では原材料を生産する生産者は、有機栽培により多大なる努力をしています。そして、その製品を購入する消費者も、応分のコスト負担をするという意味で努力をしています。しかし、メーカーや販売側は単に環境配慮商材を扱ってビジネスをしているだけなのです。

自社が生産活動をおこなうこと自体が環境負荷になっていること。それを理解して、その負荷自体の低減に取り組まなければ、本当の意味で環境に配慮した商品をつくっていると胸をはって言えないのではないでしょうか。

肝心のオーガニック120は少しも売れていないのに、私にはその覚悟だけはできていました。「世界でいちばん安全なタオルをつくりたい」という覚悟があったのです。

こうして、池内タオルは「自社の使用電力を100%風力でまかなう日本初の企業」となりました。

海外アワード受賞により、ついに飛躍の時

自社で使う電力を全て風力エネルギーに替えたことは話題となり、少しずつではありますがメディアに取り上げられるようにもなりました。

だからといって、ブランドとしての認知はそう簡単には高まりません。当社の売上における自社ブランド商品の売上比率はわずか1パーセント以下という状況が続いていました。

それでも、コアなファン層は徐々に拡大していました。把握している限りでは、2001年の1月には、『がんばれ池内タオル!』というサイトもオープンしていました。これは当社とは全く関係のない方が立ち上げられたサイトで、個人的に当社を応援してくださっていたのです。私たちの姿勢に共感してくれるファンの方たちが自然に集まってきてくれたのは、本当にありがたく嬉しいことでした。

そんな当社の知名度が一気に高まるきっかけとなったのは、2002年4月にニューヨークで開かれた全米最大規模の『ニューヨーク・ホームテキスタイルショー・2002 スプリング』です。

それまで参加したアメリカでの展示会は全て西海岸で、東海岸への出展はこのときが初めてでした。そこでいきなり、オーガニック120と一緒に展示していた当社の『ストレイツ カラーソリッド』シリーズが、ベスト・ニュープロダクト・アワード(最優秀賞)に選ばれたのです。

これは、出展した世界32カ国、約1000社のうちの5社だけに与えられるという栄誉ある賞です。日本製品としては初のグランプリ受賞でした。

この栄誉に、私は舞い上がらずにはいられませんでした。そして、この受賞をきっかけに、当社の知名度は一気に高まったのです。

瞬く間に、世界的なファッションの中心地ニューヨークのソーホー地区で、5店との契約が成立し、30件以上の商談が進んでいきました。その評判は日本にも届き、国内でも、状況は驚くほど変化していきました。とくに受賞以降、マスコミに取り上げられる機会が多くなっていったのです。

さらに驚いたことに、小泉純一郎首相(当時)が2003年1月の施策方針演説で当社のことについて触れてくださったのです。具体的な社名こそは出ませんでしたが、「海外との競争にさらされながら健闘する愛媛のタオル会社」と言及してくださいました。

そして、同年5月に、テレビ朝日の『ニュースステーション』で「環境立国 ー 風で織る」と題して、当社の取り組みが大々的に放送されました。この反響は大変なものでした。放送の後、会社の電話はパンク寸前になったほどです。一般の方をはじめ、商品を取り扱いたいという小売店や卸売業者の方々など、各方面から電話がかかり続け、社内はてんてこ舞いでした。

しかしながら、せっかく増えた引き合いに対して、社内の体制が全く追いつきません。なんとか製品の手当てができそうなのは、秋シーズンくらいから。その年の2003年9月10日からの全国販売に向け、急ピッチで体制の整備を進めることにしました。

オーガニック120誕生によって生まれた自社ブランド『IKT』を取り扱う国内店舗は、2003年9月以降に一気に200店舗にまで広がる予定でした。それまでの細々とした販売を考えると信じられない状況です。

海外ではアメリカを代表するインテリア・ショップである『ABCカーペット』にも、商品を置いてもらうことが決まりました。ここは、100年をゆうに超える歴史をもつ老舗で、しかも扱う商品は最高級品ばかり。ABCカーペットに置かれた商品だといえば、誰もが一目置くような存在で、海外のバイヤーがアメリカの市場動向をおさえるために必ず立ち寄るという場所です。

こうして池内タオルは、私の夢が詰まったオーガニック120と共に、いよいよ新しいステージへと空高く羽ばたこうとしていました。

そんな矢先、当社は思いもよらなかった致命的なアクシデントに見舞われます。IKTの将来の展望に胸を膨らませていた私は、一気に奈落の底に突き落とされたのです。

天国から奈落の底へ

国内外ともに、まさに離陸体制が万全に整ったという、ちょうどその時でした。

当社の主要取引先だった東京の問屋が破綻したのです。晴天の霹靂というのは、こうした状況を言うのでしょう。その会社は経営に行き詰まり、2003年8月27日、自己破産の途を選択せざるをえなかったのです。

そして、当社には約2億4000万円もの売掛金の焦げつきが生じました。この焦げつきは大きすぎます。しかし、一番の問題は、直近の年商のうち70パーセントを依存していた最大の取引先が消滅したという事実でした。

この難局をどう乗り切るか…。前日までの高揚感が、嘘のように引いていきました。

「表と裏のふたつの顔をもっていたことに、天が罰を与えたのかもしれない…」

空を仰ぐと、そんな思いが胸に去来しました。その当時、「環境配慮」というキーワードは、すでに池内タオルの企業理念の核となっていました。しかし、実際に経営を支えていたのは、「日本一のタオルハンカチのOEMメーカー」というもうひとつの顔でした。売上の大半は、タオルハンカチのOEM生産で稼いでいたのです。

自社ブランドであるIKTの前年2002年の売上は、わずか700万円程度で、売上全体の1%にも満たない額。ところが、ニューヨークでの受賞を境に、国内外からの引き合いが急増し、私の心のなかでは、IKTの売上がすでに50%程度を占めているような錯覚が生じていました。

私自身、マスコミに持ち上げられて、有頂天になっていたところがあったのかもしれません。

私は懊悩しました。

当社はタオルハンカチでは既に実績がありましたから、借入を増やして急場をしのぎ、タオルハンカチのOEM製造企業として生き残ることも十分に可能だと思われました。取引のあった金融機関も、私の計画に応じて最大限の支援をすると言ってくれました。

しかし、私はここで考えました。

当時の負債総額は、焦げ付いた2億4000万円を合わせて、約10億円。追加融資を受け、もう一度OEM生産に本腰を入れれば、企業として延命することは可能かもしれません。ですが、従来と同じ路線で経営を続けることのリスクは非常に大きく感じられました。次に何かあった時には、もう打つ手はありません。OEMという名での下請け生産を続ける以上、同じ状況に陥る可能性をゼロにすることは不可能です。

同時に私を深く悩ませたのは、ようやく羽ばたこうとしている自社ブランドの存在でした。

これからもOEM中心のメーカーとして新たな顧客を得て、生き伸びていこうとするならば、私の理想であるオーガニック120を中心としたIKTは、殺さざるをえません。

もちろん「自社ブランドでいける」という自信があったわけでもありません。前年度700万円の売上しか生んでいないブランドに軸足を移し再建を図るなど、無謀の極みです。

ただ、9月の全国発売に向け準備を進め、出荷間際の8月に入ったとき、私は「これでいける!」という確かな手応えを感じていました。

決断を出すまで、わずかな時間しか残されていません。まさに、寝る間を惜しんで策を練り、逡巡に次ぐ逡巡を重ねた結果、私が出した結論はこうでした。

「IKTブランドを中心にして、会社を再生する」

そして2003年9月、池内タオルは民事再生法の適用を申請しました。それは全国販売開始予定日の前日、9月9日のことです。

ファンからの応援を励みに

再建において、社内のリストラクチャリングは必須でした。人員も当然、聖域ではありません。

2003年8月31日。当時の社員の約半数にあたる10人強が池内タオルを去っていきました。残った社員は10名ちょっと。

自社ブランドで会社を立て直そうという気概はあるものの、会社の目の前に横たわっていたのは、「当座のお金がない」「明日どうなるか分からない」という厳しい現実でした。

再生計画の認可を受けるためには、2つのハードルがありました。ひとつは、債権額の5割以上、さらに債権者数の5割以上がこの計画の遂行を了承する。その両方を満たさなければなりません。

債権カットをお願いした先は、メインバンクを含めて29社。ともかく再建の可能性を示し、債権者のみなさんの理解を得られるよう、必死の努力をするほかありません。

この時の私のパワーの源になったのは、IKTを応援してくださる方々からの応援のメッセージでした。

民事再生が決まった時から、私の公開メールアドレスには、大量の激励メールが届いていたのです。そのメールのなかには、こんな一通もありました。

「タオルを何枚買えば、池内タオルは存続できますか?」

この言葉に私がどれだけ勇気づけられたか分かりません。この後押しがなければ、自社ブランドでの再生を諦め、廃業やむなしと考え、会社を畳んでいたかもしれません。私が『IKTマニア』と呼ぶファンのみなさんからの応援が、私の背中を強く押してくれたのです。

メインバンクも、「池内はともかく、そのまわりにいる熱狂的なファンのために応援するよ」と言ってくれました。債権カットは実に92%。常識を外れた大幅なカット率を、債権者のみなさんは了承してくれました。

おそらく、当社のビジネスモデルに夢を賭けてくださったのだと思います。ご迷惑をかけた債権者のみなさんには、ただひたすらに感謝しかありません。

「変えること」より、「変えないこと」

2004年2月、当社の民事再生の申請は、認定されました。あとは再生計画にのっとって、自社ブランド中心の展開を推し進めるのみです。

とはいっても、計画上も実態も、IKTブランドに根本的にテコ入れするような奇策を講じたわけではありません。オーガニック120が誕生した時と変わらず、同じことを愚直に続けるのみです。

経営危機に陥り、早急に再建が必要だからといって、根本を変えてしまっては本末転倒。「変えること」より、いかに「変えないか」が大事だったのです。

何より応援のメッセージを送ってくれたIKTマニアの方々は、池内タオルが「変わらないこと」を望んでいます。債権カットに応じてくれた債権者の方々も、当社の商品をどうしても扱いたいと言ってくれた販売店の方々も、再建の鍵は当社のブランド・コンセプトにあると思っています。

ですから、私が再建のためにしたことは、実は多くありません。

ただひたすらに、信念をもってコンセプトを曲げることなく商品づくりに取り組むこと。そして、そのコンセプトをひとりでも多くの方に知ってもらえるように、労を惜しまず語り続ることです。

当時、池内タオルの営業担当はほぼ私ひとり。トップセールスというと聞こえは良いかもしれませんが、とにかく人手がなかったのです。

オーガニック120をはじめ当社の商品は、かわいいとか、きれいといった、見た目で買っていただけるものではありません。なので、私の営業スタイルは、製品の裏側にあるポリシーやコンセプトを語ること、それに尽きます。

そのため、私は初めて会う方と話をするときは、必ず90分はお時間をいただくことにしています。製品の裏側にあるものを伝えようとすると、自然とそれくらいの時間はかかってしまうのです。

皮肉な話ですが、民事再生法の適用を受けてから、さらに取材依頼も増えました。また、池内タオルのストーリーについて語ってほしいと講演依頼をいただくことも増えてきたのです。

私は講演依頼をいただいたなら、年12回までは必ず無条件でお引き受けすることにしています。とにかく、池内タオルのことを、そしてIKTのことを伝えたい。少しでもチャンスがあれば、どこにでも出かけていって、ひとりでも多くの方に、私たちのコンセプトをご理解いただけるように話す。これが私のやり方です。

自社ブランドを会社の中心に据え、再生法申請時に定めた再生計画を実行し、利益も出始め、ようやく2007年3月に、法的再生手続きを無事に完了することができました。

そして翌2008年には、私たちのコンセプトに価値を感じてくれたファンドによる投資も入り、一番の懸念事項であった資金面にも光が差してきました。

オーガニック120が10歳となった2009年。ようやく池内タオルは倒産の危機というどん底から這い上がり、水面に顔を出すことができたのです。

これからの60年間を見据えて

その後、2011年12月にテレビ東京の『カンブリア宮殿』に私は出演しました。

その時の番組タイトルは「衰退産業・地方・中小・民事再生。“四重苦”をぶっ飛ばした、ブレない経営!」というもので、当社のコンセプトや経営姿勢を評価いただき、番組出演が決まったのです。

2003年のニュースステーションと同じくらい、カンブリア宮殿の影響は大きく、翌年の2012年は商品の供給が需要に追いつきませんでした。今治のファクトリーストアまで、わざわざ関東からお越しいただくお客さまもいらっしゃいました。

そうして迎えた2013年。この年は父が池内タオルを創業してから60周年の年です。その節目に、これからの池内タオルの60年を考えたとき、私はブランドのあり方を見直したいと思いました。

正式なブランド名は『IKT』です。でも、お客さまからは『風で織るタオル』と呼ばれています。更に、会社名は『池内タオル』。色々な名称があって、ややこしい。そして、多くの人に私たちのコンセプトを理解してもらうにあたり、さすがに毎回90分の時間をかけて説明するには限界がある。

そんな課題感から、旧知の仲であった『D&DEPARTMENT』代表のナガオカケンメイさんに、ブランドのCI(コーポレート・アイデンティティ)をお願いすることにしました。

ナガオカさんは、これまでの私が歩んできた道、オーガニック120や自社ブランドに込めた想い、これからの夢について、私の話を真摯に聞いてくれました。

その結果、誕生したのが『IKEUCHI ORGANIC』です。

池内式のオーガニックを極める。そして、タオルにとどまらずオーガニックに関する様々なものに対して強い影響力を与えていく。そんな存在となることを目指し、黄色い「I」のロゴマークと共に、この名前をナガオカさんは授けてくれました。

そして私は、ブランド名だけでなく、企業名もIKEUCHI ORGANICに変えてしまいました。こちらの方がしっくりくると感じたのです。

翌2014年3月、池内タオルはIKEUCHI ORGANICに正式に生まれ変わりました。オーガニック120が15歳の年です。この時に、『オーガニック カラーソリッド 1』から『オーガニック 120』と名前が改名されます。

そして、同年3月に表参道、9月に京都で、今治以外の場所で初となる直営店をオープンさせます。お客さまに直接私たちのコンセプトを伝える場を広げるためです。

それから5年が経った現在、私たち社員にとっても、お客さまにとっても、IKEUCHI ORGANICが根付いてきたと感じています。

最後に:20年間で格段によくなった『オーガニック120』

現在、IKEUCHI ORGANICは、私が思い描いていた理想の姿に、日々近づいているという実感があります。

会社の動きそのものが、IKEUCHI ORGANICとしてのブランドの確立に集約され、よりピュアな取り組みになってきていると感じています。

そして、オーガニック120は、この20年間で桁違いに良くなりました。

オーガニック120を購入いただいた方が、次に購入する時にも「やっぱりいい」と感動していただけるように、実は少しずつ改良を加えています。見た目は変わりませんが、吸水性などは格段に良くなっています。

これは、オーガニック・コットンに対する私たちの知識や、様々な試行錯誤の繰り返しによる当社のつくり手たちの技術力向上の賜物です。

「世の中でタオルを、ひとつだけ選ぶとしたら?」と聞かれたら、私は迷うことなくオーガニック120と答えます。それくらい、よくできたタオルです。

IKEUCHI ORGANICでは、様々なタイプのタオルをつくっていますが、あらゆる面をきっちりこなす自慢の優等生がオーガニック120です。

そのオーガニック120に申し訳なく思っているのは、オーガニック120の20周年モデルをつくってあげられていないことです。アイデアが全く浮かびません(笑)。もう改良の仕様がないのです。

そこで、オーガニック120の20周年をお祝いして、誕生からこれまでの歴史を、こうして皆さんに語りたいと思いました。

ここまでお読みいただいた方はお分かりだと思いますが、今日まで私とオーガニック120が歩んできた道のりは、決して平坦なものではありませんでした。

夢と意地。収益がでないまま、挑戦を続けるには、何よりこれが必要なものでした。

ですが今は、企業指針である「2073年(創業120周年)までに赤ちゃんが食べられるタオルをつくる」を見据えて、毎日の仕事をしています。

私自身も70歳になりましたが、「まだまだこれから」という意気込みです。

同じ世代の多くがすでにリタイアを始めているなかで、これほど充実した毎日を送れているのは、幸せなことなのでしょう。

当社を含め、中小企業を取り巻く環境はとても大変な時期ではありますが、これからも「最大限の安全と最小限の環境負荷」を掲げ、ブレないものづくりを貫き、未来を切り拓いていきたいと思います。

IKEUCHI ORGANIC 株式会社 代表・池内計司

編集協力:井手桂司

池内 計司

記事を書いた人

池内 計司

IKEUCHI ORGANIC 代表。一橋大学商学部を卒業後、松下電器産業(現パナソニック)に入社。1983年、家業である池内タオルに入社し、2代目として代表取締役社長に就任。現在は代表として企画開発部門に従事。